だって、思いついたから このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-03-05ノリが精神と肉体を凌駕した場合

第一部 来栖川蟻砂

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来栖川蟻砂はテリーマンのような女子高生である。肌は健康的なピンク色で、額には毎朝米の字を書き入れている。今でこそアイドル超人的な扱いを受けている彼女であるが、その過去は決して明るいものではなかった。額に米と書かれた年頃の女の子の生活を想像できるだろうか。いわれの無い差別偏見と嘲笑の中に、来栖川蟻砂の青春があったのだ。悲鳴に似た彼女への圧迫がピークに達したのは小学生時代、そのとき、来栖川蟻砂の心は一旦壊れる。




来栖川蟻砂は毎日、ランドセル教科書と筆箱とリコーダー、そしてナップサックに憎しみをつめて登校していた。ランドセルはいつも前に来るようにして肩にかける。クラスメート通りすがりボディブローへの対策であった。「あらよ、ラー油一丁!」意味不明の掛け声と共に、蟻砂の腹に拳がめりこむ。男子も女子も関係なかった。クラスメートたちは「笑い声が湿っぽい」「髪型がワニの断面図みたい」という理由で、蟻砂を虐めた。それに引きつった笑みを返す蟻砂を、クラスメートはさらに苛立って虐めた。この頃、蟻砂は壁に体当たりして和む事を覚える。それは行き場のない怒りの発散である事に、まだ蟻砂は気付かない。虐待スパイラルは激化する。


だが、蟻砂は孤独ではなかった。共働きで家に居る事が少なかった両親は、隣に住む遠い親戚のマーサおばさんの家に、蟻砂を預けた。生まれてきた事、今生きている事に喜びを見出せない蟻砂に、両親は何一つ与える事はなかったが、唯一、このマーサおばさんと引き合わせた事だけが、功績と呼べるだろう。

それは、蟻砂のぽっかりと空いた奈落の人生の、たった一本の綱であった。マーサおばさんは、ロックンローラーだけど、今は身分を隠して主婦をしている。「夫にばれるとうるさいから」だって、私は今幸せだからね――と笑う彼女を見ても、蟻砂はいつものような歪な憎しみは湧いてこない。


マーサおばさんは、蟻砂が来るといつも「七星が集うとき、ケーキが焼き上がり、お茶の用意も整うという伝説があるの」と呟いては、クッキー紅茶を出してくれる。七星については良く知らない。

「私が特別愛情を込めて焼き上げたクッキーを召し上がれ」彼女はいつも嬉しそうに言う。だが蟻砂はそれが嘘だと知っている。蟻砂はマーサおばさんが、クッキー焼いてる所を見た事がない。それでも蟻砂は、クッキーに込められた愛情を確かに感じ取っていた。

コーヒーには砂糖かつおぶしロックンロール!YAH!」

50過ぎて尚ノリノリのこのおばさんの前でだけ、蟻砂はにっこりといかないまでも、口の端をあげることができたのだ。


そんなある日、いつものようにマーサおばさんの家でクッキーを食べていた蟻砂の心は、蟻砂にとって突然に、ギリギリまで追い詰められた精神としては必然的に、決壊する。ぼろぼろと涙を零しながら、クッキーを齧る蟻砂を見つめ、マーサおばさんは優しく言った。

「蟻砂、修行しましょう」

蟻砂の人生は、辛いファーストステージをようやく抜ける。そして、別の意味で辛く、楽しかったセカンドステージに向かう。

折りしも夏休みが始まっていた。蟻砂はマーサおばさんの故郷で、その年の夏を過ごす。


二人は夜通し修行にあけくれた。黒インクになりすます訓練。細切り麺で縄跳びをする訓練。蟻砂の常識破壊され、また構築されていく。

こんなことがあった。二人は、子供用の浅いプールで、茹でる前のそうめんを使って、互いの経絡秘孔を突きあっていた。勘違いした監視員は「そうめんフェンシングしないでください。繰り返します。そうめんフェンシングしないでください」と拡声器で叫びはじめ、そのとき蟻砂は、小学校に入って、本当に久しぶりに、彼女本来の、その向日葵のような、明るい笑顔を見せることができたのだ。マーサおばさんは、涙を流して、それを喜んだ。

ホームレスや酔っ払いとの、モデルハウス放火するセッションを終えた後、火照った顔でマーサおばさんは、蟻砂に免許皆伝賞状を渡した。マーサおばさんの手で蟻砂の両肩に星マークが張られる。蟻砂の顔は嬉しさと緊張で紅潮し、興奮を抑えることができない。修行で鍛えられた蟻砂の力が何倍にも引き上げられるような感覚に、蟻砂は震えるのだった。



長い夏休みが明けた。9月1日。蟻砂はマーサおばさんの家から、学校に向かう。

「蟻砂。一人で大丈夫?」

言葉とは裏腹の、茶目っ気たっぷり笑顔で、マーサおばさんは言う。

「うん。大丈夫」

卑屈と憎しみに溢れていた蟻砂の目は、今では自信と喜びに溢れている。マーサおばさんは満足げにうなずく。

「ついてきてなんて言ってたら、キーボード八つ当たりするところよ」

「あはは、私には何もしないんだ」

「可愛い蟻砂に、傷一つ付けられるもんですか」

二人は、笑いながら、最後の抱擁を交わす。

「……行ってくるね」

「……行ってきなさい」


力強い足取りで、歩いていく愛娘の背中に、マーサおばさんは声をかける。

学校についたら、まずどうするの?」

蟻砂は、しばらく考えた後、振り向いて笑顔で言った。


「そうねぇ、ぱっさぱさのパンケーキをねじこんでやろうかしら」


ひと夏で、少女は変わる。北風と太陽少女を育てる。